南部火消年表
紀元前245 | ・アレクサンドリアの発明家クテオシビスが最初の消防ポンプを発明する。ヘロオによって後世に伝えられ、ドイツではこのポンプをヘロオの消防ポンプと呼んでいる。 |
1518(永正15) | ・ドイツで押し上げポンプが発明される。 |
1594(文禄3) | ・南部信直公、不来城を居城と定める。 |
1597(慶長2) | ・盛岡城築城工事・城下町設営工事が本格的に始まる。 |
1598(慶長3) | ・盛岡城築城が正式に許可される。 |
1603(慶長8) | ・「盛岡城」と命名される。 |
1609(慶長14) | ・中津川に18個の擬宝珠を付けた上の橋が架けられる。 |
1611(慶長16) | ・中津川に20個の擬宝珠を付けた中の橋が架けられる。 |
1612(慶長17) | ・中津川に下の橋が架けられる。 |
1613(慶長18) | ・近江商人が来盛し、以後盛岡の商業が発展する。 |
1615(元和1) | ・盛岡城下街に23町が画される。 |
1617(元和3) | ・青森三戸の人々を盛岡に移住させ、その町を三戸町と呼ぶ。 |
1619(元和5) | ・大清水に北上川護岸の杉土手を築く。 |
1621(元和7) | ・7月 江戸で火消役が置かれる。官設消防の始まり。 |
1624(寛永1) | ・ドイツで2人用の小型ポンプが作られる。 |
1629(寛永6) | ・江戸に辻番、自身番所が置かれる。武家火消、町火消しの芽生えとなる。 |
1633(寛永10) | ・盛岡城が正式に南部氏の居城となる。 ・盛岡藩に町奉行所が置かれる。 |
1635(寛永12) | ・盛岡城が45年間をかけて完成する。 |
1636(寛永13) |
・南部重直公、参勤交代で10日遅れて上京し、寛永15年12月までの逼塞の責罰を命ぜられる。
・江戸日光東照宮の造営成る。
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1638(寛永15) | ・12月22日 重直公、逼塞の責罰を許されるが、尚5カ年の遠慮の責罰を命じられる。 |
1641(寛永18) | ●1月29日 夜11時ごろ江戸京橋桶町1丁目北側の薬煎じの松庵より出火し大火となる。民家1930戸、武家屋敷130軒を焼失し、死者は数百人という。この大火に際し南部重直公は遠慮謹慎中にもかかわらず臣下を引き連れて消防に大活躍、将軍家光公により激賞され責罰を解かれた。重直公はもちろん家臣たちはこの御恩赦に感激し、その後消防の任を大いに研究した。 |
1643(寛永20) | ・江戸で大名火消が設置される。 |
1650(慶安3) | ●3月24日 盛岡藩に城下火廻番、町火廻番が任命された。 |
1651(慶安4) | ●8月22日 盛岡藩に東辻番と北辻番が置かれる。 |
1657(明歴3) | ●1月18日 本郷丸山の本妙寺より出火し、江戸大火となる。「振袖火事」とも呼ばれ、世界3大大火の一つに数えられる。死者は10万7千人余り。この大火に際し、南部重直公はみずから率先士卒を連れ出しその防留に努めた。その雄姿は他藩の諸侯驚くばかりであって、将軍はこの主従一体の働きを大いにお褒めになったと記されている。またこの大火が江戸町火消誕生の契機ともなった。江戸に南部藩火消の名声高まる。 |
1658(万治1) |
・8月 江戸で高野新左衛門が町火消創設を奉行に進言し認められる。高野みずから南伝馬町、桶町など23町167人を支配した。
・9月 江戸で定火消が編成される。
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1659(万治2) | ・1月4日 定火消が江戸東照宮前で出初の式を行う。 |
1660(万治3) | ●正月より3月までに江戸での火災が105件に及ぶ。南部藩火消は次々と消火の功績を残し、将軍からのお褒めすこぶる大きかった。 |
1662(寛文2) | ・1月28日 侍町21カ所に辻番を置く。 |
1665(寛文5) | ●2月23日 盛岡藩、城下に15カ所の辻番を置く。なお各町ではみずからの自身番も置いた。これらの自身番は主に火防を中心とした番所であって、町火消しの芽生えであるといえる。 |
1671(寛文11) |
・2月28日 盛岡志家の森に新八幡宮社地の造成の工を起こす。
・夏 八戸櫛引八幡宮の例を勧請し神霊を城内八幡社に合祀す。
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1676(延宝4) |
●1月 盛岡藩に我が国6番目の定火消が設置される。騎馬火廻方に柴田長左衛門以下、火消役に楢山五左衛門以下が任命された。定火消は城内および武家屋敷のみが担当範囲で、城下各町内には任意の自衛組織「火消し鳶」があった。
●11月 南部重信公が幕府より江戸城御成橋筋の消防を担当することを命じられる。重信公は老身病身につき、代理として八戸三五郎がその任務に就き、火消用人60人が出立した。11月2日には南部藩消防規則七項目(覚)が出され、南部藩火消は堅固なものになった。
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1680(延宝8) | ・盛岡に新八幡社が完成し、社前に八幡町が町立する。 |
1681(延宝9) |
・8月14、15、16日の3日間神事を行い、城内八幡社より御神輿渡御し城内に環御する。
・この日より「十五日」八幡社および社地を八幡町民によって警護任命せられる。(雜書)
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1685(貞享2) | ●2月 重信公、寒中の城下巡視中に各町の防火用水桶を発見し、中町・紺屋町・三戸町・馬町・八日町・八幡町にそれぞれ米一駄ずつの賞を与えた。このころより各町は自主消防に努めていたようである。 |
1695(元禄8) | ・この年、南部藩4大飢饉の一つとされる大凶作となり、餓死者3万人を超す。放火が多発した。 |
1709(宝永6) | ・八幡宮祭典に城下23町から初めて山飾、練物が出る。 |
1719(享保4) | ・4月 江戸で大岡越前守が町火消「いろは48組」と他に16組の火消組を組織する。 |
1720(享保5) |
・江戸町火消が「いろは47組」に再編される。
・町火消組に纏制度をつくる。ただし馬簾はなし。
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1730(享保15) |
・1月19日 江戸町火消「いろは47組」がブロック制(大組)の「1番組」~「10番組」に再編される。
・纏に馬簾をつけることとした。
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1741(寛保1) | ●7月19日 盛岡藩で瓦葺屋根を許可する。 |
1745(延享2) | ●南部利視公、「南部藩藩仰出書」(天災についての心得)を出す。 |
1754(宝暦4) |
・長崎で龍吐水が発明されたといわれる。
・加賀前田吉徳公の第4女が南部第34代利雄公に輿入れするとき、同行した鳶職が、現在の加賀野にわらじを脱いで永住する。
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1755(宝暦5) | ・南部藩で大飢饉となり、5万4227人の餓死者がでる。 |
1770(明和7) | ・幕府が龍吐水を消防用として初めて利用する。 |
1783(天明3) |
●6月 馬町に「いろは組」(後の「1番組」現「第3分団」)が結成される。加賀藩より来て盛岡に永住した鳶のうち、十三日町の伝之丞、惣八が第35代利正公の命によって馬町に「いろは組」の火消組を組織した。いわゆる御用火消として城内をはじめ町家などの火消の任にあたり、城内本丸の火災のとき、抜群の働きをし、藩士より馬印払い下げをうけている。
●油町では伝之丞、惣八の弟分の甚七が25人の若者を以て「ゑ組」(後の「2番組」現「第6分団」)を創設した。これらが盛岡消防の先駆けと言われている。
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天明の頃 | ●「よ組」(現紺屋町「第5分団」)が結成されたようである。 |
1784(天明4) | ・南部藩で大飢饉となり、6万4693人の餓死者が出る。津軽藩では餓死者8万1702人、八戸藩3万105人。(注:1783年とする資料あり) |
1787(天明7) | ・江戸の町火消人は総て鳶職となる。 |
1788(天明8) |
●4月 南部藩、藩費を以て城下23町に対し3町1組として7組に手龍吐水を配布し、城下街の警備に当たらせる。このころより盛岡町火消組が画されたと思われる。これが後の文化10年の八組の町火消へと発展した。
・2月 京都で大火となり、18万3千戸焼失、3100町、寺院928寺、神社220社余りが焼失した。
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寛政~文化の頃 | ●南部利敬公が消防伝習のため御用鳶を江戸に派遣している。(第三分団史) |
1798(寛政10) |
●城下火消の鳶働きの者、「いろは組」30人を願いによって町抱えの制度が組織される。(馬町「いろは組」現「第3分団」)
●油町の「ゑ組」も同様であった。
●すでに同年には、八幡町に「は組」として小田源助相撲行司纏印も源氏車として八幡町開町以来火消組が生まれていたようだ。
●江戸大火に際し、南部御抱相撲の錦木塚右衛門が、猛火のため江戸火消「い組」が捨て置いた罌
粟枡纏を拾い上げる。 |
1799(寛政11) |
●2月17日 「玉組」創設す。田町(長町)の壮丁25人が利敬公に対して消防組編成の願い出があってこの費用75貫分(15貫は藩の補助、60貫は町内有志の寄付)をもって許可された。自発的に消防組を組織した点で、盛岡町火消組の嚆矢とみなすことができる。
●8月 八幡宮神事に伴う勧進興行相撲の際、錦木塚右衛門らが、八幡町相撲行司小田源助と仙北町相撲小頭七ツ滝岩平に土産として江戸「い組」罌粟枡纏を持ち来る。仙北町にてこれを預かる。
●南部藩、幕府よりイギリス製腕用ポンプ「ニューシャム」を支給され、函館警備の任を命ぜられた。
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寛政の頃 | ●仙北町に「ろ組」(後の「は組」現「第1分団」)が結成される。 |
享和年中 | ●盛岡城下に火の見櫓と報知用半鐘が設置される。石町惣門の仕切柵のそばに火の見櫓を立て、半鐘を吊るして、堀際の菓子屋とそば屋に持前を命じ、火事の際はこの半鐘によって合図することにした。町火消制度の成立と対応するものであった。 |
文化初め頃 | ●元江戸「い組」の纏を仙北町と八幡町が交換する。 |
1808(文化5) | ・12月18日 盛岡藩が20万石に増加される。 |
1810(文化7) | ・八幡町の茶屋等を津志田に移し、桃町を立て遊廓とし、大国神社を造営する。 |
1812(文化9) | ・藩令により「神明町」を「生姜丁」と呼ぶ。城下28丁と呼ぶようになった。 |
1813(文化10) |
●盛岡城下23町火消が3町1組にして8組(960人)に編成される。南部利敬公のときであって、各組で龍吐水三挺ほかに消防七つ道具を揃えて防火火消しに万全を期した。その内訳は
①ゑノ字組(油丁)②いろは組(馬町)③忠ノ字組(花屋丁)
④目ノ字組(鉈屋丁)⑤いノ字組(八幡丁)⑥玉字組(田町)
⑦よノ字組(紺屋丁)⑧はノ字組(仙北丁)
いっぽうで城下の豪商たちは独自の自衛消防策を工夫。
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文化文政の頃 | ●鉈屋町に「目組」(後の「め組」現「第2分団」)が結成される。(注:鉈屋町には「も組」も並立) |
1829(文政12) | ・イギリスで蒸気ポンプが発明される。 |
1831(天保2) | ・町火消の纏印をすべて将棋の駒より現在の型にする。これまで地方では自由であったようだ。 |
1833(天保4) | ・南部藩で大飢饉となる。 |
1834(天保5) | ●木津屋本店で防火建築を施し、防火諸道具を備える。 |
1835(天保6) | ・(江戸で)町火消鳶口を7尺より6尺と定める。 (火消同士のけんか多発のため) |
1846(弘化3) | ●長町に龍組(龍吐水組)が創設される。 |
1852(嘉永5) | ●盛岡城下に火の見梯子と鐘を設置(注:同様の記述「享和年中」に既出)。嘉永期には町内自警の鳴子打・火の番・季節的な夜警巡視があった。(盛岡藩で)「方角火消」を任命し、3丁4方の火の番・火防を命じている。このほか400石以上の諸士に対しては石高に応じて火消人数を出すべきこととした。 |
1859(安政6) | ・我が国に初めてランプが灯る。 |
1866(慶応2) | ●4月 「い組纏の謂れ」を旧記に基づき書写する。 |
1870(明治3) |
・東京消防局で蒸気ポンプをイギリスより初めて輸入する。
・フランスで蒸気ポンプが初めて使用される。
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1872(明治5) |
・11月 城内八幡社を現八幡社に遷す。
・東京が6大区制となり、各大区が1番組より順番組に編成される。
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1873(明治6) |
●4月8日 県の布達があったときの各組はつぎの8組であった。
馬町に「いろは組」油町に「ゑ組」長町に「龍組」八幡町に「い組」
仙北町に「は組」紺屋町に「よ組」生姜町に「わ組」鉈屋町に「め組」
・4月13日 志家村八幡宮を県社に指定した。
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1874(明治7) | ●1月28日 消防章程が制定される。 |
1875(明治8) |
・1月4日 消防出初式が東京で復活する。
・東京警視庁、フランスより腕用ポンプ(フランス型甲号)を初輸入する。価格は一台631円であった。
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1876(明治9) |
●6月23日 「いろは組」が「1番組」の称号を認可される。
●南部火消が岩手県政に組み込まれる。この時点での盛岡町火消組は次のとおり。
は組(仙北町)1番組(馬町)い組(八幡町)よ組(紺屋町)
2番組(油町)3番組(長町)め組(鉈屋町)わ組(生姜町)
・市原ポンプ製作所で甲号腕用ポンプを国産化する。
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1877(明治10) | ●岩手県消防組規則が制定され、消防は警察の指揮下にはいる。 |
1879(明治12) |
●よ組、フランス型甲号和製ポンプ(腕用ポンプ)を東京の河村和三郎に注文して購入する。米一俵が2円64銭であったこの当時、国産ポンプ1台は445円(運賃を含め460円余)だった。運賃共でじつに米約174俵分である。
●い組、腕用ポンプを購入するも後に使用不能につき返品する。
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1880(明治13) |
●島県令、1番組(馬町)、2番組(油町)、3番組(長町)を県の御用鳶とする。
●10月 本町に「本組」(現「第7分団」)が結成される。
・6月1日 内務省に消防本部が設置される。公的消防組である。
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1882(明治15) | ●中野村役場より1番組(馬町)に腕用ポンプ(フランス型甲号和製ポンプ)が寄贈される。 |
1883(明治16) | ●い組、2代目の腕用ポンプ(フランス型甲号和製ポンプ)を購入する。 |
1884(明治17) |
●12月13日 め組(鉈屋町)、かねて注文していたドイツ型乙号和製腕用ポンプを総経費520円で購入する。(当時の新聞)
●12月19日付 11月の河南地区大火の反省に基づき盛岡消防組聯合会(聯合消防組)が発足する。構成は次の9組。
は組(仙北町)め組(鉈屋町)も組(鉈屋町)1番組(馬町)
い組(八幡町)わ組(生姜町)よ組(紺屋町)本組(本町)3番組(長町)
・横浜でドイツより乙号ポンプを輸入する。
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1885(明治18) |
●1月11日 勧業場を中心とした会場で盛岡消防組聯合会の消防出初式が挙行される。盛岡消防史初の消防出初式である。
●1月15日 は組(仙北町)、釜石鉱山分局よりフランス型甲号ポンプの払い下げを受け、150円で購入する。
●1月 盛岡泥工特別火防組が結成される。
●3月5日 東京消防本署でのフランス式腕用ポンプ使用法講習会受講のため、各組の頭取など12人が上京し、全員合格、卒業する。
●12月 2番組(油町)、全員で3階造りの番屋を建築する。
・横浜市、全国に先駆けて水道工事に着手する。
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1886(明治19) | ●1月16日 仙北町北上川原で消防出初式を行う。 |
1887(明治20) |
●1月25日 消防出初式を行う。
●2月 「い組纏の謂れ」を再度書写する(工藤瓢庵)。
・10月 横浜市で水道が完成する。
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1888(明治21) | ●生姜町の「わ組」が廃止される。 |
1889(明治22) |
●1月4日 出初式を行う。
●市町村制度が施行され、「盛岡市」が誕生する。市制となり初めての盛岡市消防予算は715円91銭5厘であった。
・11月 紺屋町の中津川に「よの字橋」が架けられる。
・10月 函館で水道が開通する。
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1890(明治23) |
●12月29日 盛岡市参事会にて市に大区制が敷かれ、消防区域が次のように規定された。
第1区 仙北町「は組」―仙北町、青物町、仙北組町
第2区 鉈屋町「め組」―川原町、鉈屋町、神子田、上小路、新穀町、大清水小路、多賀
第3区 馬町「1番組」―馬町、十三日町、餌差小路、六日町、上衆小路、鷹匠小路、馬場小路、
川原小路、呉服町 第4区 八幡町「い組」―八幡町、生姜町、肴町、志家、葺手町、新庄
第5区 紺屋町「よ組」―紺屋町、鍛冶町、紙町、内加賀野、外加賀野
第6区 油町「2番組」―油町、山岸町、下小路、大工町、花屋町、四ツ谷町、上田組町、
上田三小路 第7区 本町「本組」―本町、八日町、内丸、日影門、外小路、三戸町
第8区 長町「3番組」―長町、仁王小路、仁王三小路、大沢川原、材木町、茅町、仁王
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1891(明治24) |
●1月12日 消防出初式を行う。
●5月14日 よ組に函館より蒸気ポンプが到着する。
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1892(明治25) |
●3月 中野村「東組」消防が誕生する。
・我が国初のスプリンクラーが設置される。
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1894(明治27) |
●国の消防組規則が公布され、消防組が全国的に統一される。
●3月 田鎖光順初代組頭となる。
●岩手県消防組規則施行細則が公布される。
●5月2日 盛岡に公設消防組(7部制212人)が誕生する。
第1部(旧・仙北町「は組」) 第2部(旧・馬町「1番組」)
第3部(旧・八幡町「い組」) 第4部(旧・紺屋町「よ組」)
第5部(旧・本町「本組」) 第6部(旧・湯町「2番組」)
第7部(旧・長町「3番組」)
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1895(明治28) | ●中野村東組消防が中野村消防組と改名する。 |
1896(明治29) | ・6月15日 三陸大津波により死者2万1959人を数える。 |
1898(明治31) | ・12月 東京市に水道消火栓が設置される。 |
1899(明治32) | ・市原製作所が蒸気ポンプを製作する。 |
1902(明治35) | ●第3部(八幡町)、3代目の腕用ポンプを購入する。 |
1903(明治36) |
●盛岡消防組に第8部(旧・鉈屋町「め組」)が加わり、盛岡消防組は8部制256人体制となる。
●盛岡消防組8部揃っての消防演習が中野村・厨川村と合同で行われる。盛岡警察署下初の消防演習である。
・大日本消防協会が発足する。同協会は消防組員の教育訓練・表彰・共済のための組織である。
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1907(明治40) |
●9月6日 盛岡市が市原式蒸気ポンプを導入する。
・国で優良消防組に金馬簾の使用を認める。
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1910(明治43) |
●5月 県令32号により金馬簾表彰制度が制定される。
●6月9日 盛岡市が蒸気ポンプを購入し、7月20日の消防演習に出動する。
●7月20日 南部藩祖700年祭記念盛岡聯合消防演習において次の3消防組に対し金馬簾が授与される。
盛岡消防組組頭 藤澤三治
中野消防組組頭 古澤清太郎
厨川消防組組頭 名久井亀治
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1911(明治44) | ・5月10日 大阪府、自動車式蒸気ポンプをイギリスのメリー・ウェザー社より1万692円で輸入する。我が国の第1号となる。 |
1912(大正1) | ・11月9日 中津川護岸が完成し、下の橋に中の橋の擬宝珠を取り付ける。計10万7200円の工事費が費やされた。 |
1913(大正2) | ●4月 盛岡消防組に第9部(蒸気ポンプ隊―盛岡警察署地内)が加わり、盛岡消防組262人体制となる。 ●9月 盛岡消防組に第10部(現第9分団)が加わる。厨川村の一部(盛岡駅前付近・新田町・木伏町)が6月に盛岡市に編入されたことにより、厨川村の消防組が9月に盛岡消防組第10部となった。盛岡消防組は293人体制となる。 ●第3部(八幡町)より米内村消防第1部に腕用ポンプが譲られる。
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1914(大正3) |
●5月7日 第9部の蒸気ポンプが消防演習に出動する。
●第3部(八幡町)、4代目の腕用ポンプを購入する。
・横浜がイギリス製、名古屋がドイツ製の消防ポンプ自動車を購入する。
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1915(大正4) |
●5月27日 南部藩祖700年祭記念消防演習行う。
●7月 毎年1月6日午前10時に出初式を開始することを決定する。
●盛岡市、全国最少火災件数(2件)を記録する。
●11月1日 岩手県消防義会が発足する。消防組員の表彰や共済のための組織である。
・国産消防ポンプ自動車の製造に成功する。
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1917(大正6) | ・4月1日 消防用電話が「119番」に定められる。 |
1919(大正8) | ・函館市消防組、消防ポンプ自動車を購入する。 |
1920(大正9) |
●9月 第3部(八幡町)、消防ポンプ自動車の購入を患部会で決議する。
●11月 第3部、消防ポンプ自動車購入のための募金成る。
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1921(大正10) |
●1月6日 第3部、消防ポンプ自動車選定購入のため12人が上京する。
●2月 第3部若者頭・村田儀七が消防ポンプ自動車操縦技術の習得のため上京する。
●3月26日 消防ポンプ自動車使用法指導のため、東京消防ポンプ製作所より桜井午郎氏が第3部に入組する。
●3月28日 第3部番屋に消防ポンプ自動車が到着、東北での第1号となる。1万2000円であった。
●4月19日 午後1時ごろ外加賀野に火災発生し、消防ポンプ自動車が初出動する。
●5月8日 第3部、東北初の消防ポンプ自動車とともに消防演習に出動する。
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1922(大正11) |
●2月 第7部(長町)が消防ポンプ自動車を備えつける。
●9月 第4部(紺屋町)が消防ポンプ自動車を備えつける。
・水管(ホース)接続器の松野式が発明され、日米特許となる。(従来はネジ式であった)
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1923(大正12) |
●9月1日 関東大震災。盛岡消防組救援隊として上京する。
・盛岡測候所が開設される。
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1924(大正13) |
●2月11日 第3部、5カ年間無火災により二條の金馬簾を受ける。
●6月1日 各部、関東大震災救助隊として金馬簾を受ける。
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1926(大正15) |
●5月20日 第3部村田儀七、宮古消防組に消防自動車使用の指導のため出張し、7月27日帰盛する。
●9月28日 盛岡消防組各小頭を部長と呼ぶことに決定する。
・9月24日 第1回全国消防組頭大会が開催される。
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1927(昭和2) |
●2月16日 第3部、県下(および東北)初の消防ポンプ自動車備えつけにより岩手県消防儀会より表彰を受ける。
●3月11日 第3部、大沢川原澤藤木材火災の消火活動により金馬簾を受ける。
●5月13日 第3部消防手・三本柳徳治、消防ポンプ自動車で負傷、7月31日殉職する。
●11月28日 第3部、井上武兵衛方火災の消火活動により金馬簾を受ける。
・2月9日 新しい大日本消防協会が発足する。
・消防ポンプ自動車に赤灯を付けることとする。
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1928(昭和3) |
●4月 盛岡消防組に第11部(現第10分団)が加わる。米内村が盛岡市に編入されたことにより、米内村の関口地区が盛岡消防組第11部となる。これにより盛岡消防組は339人体制となった。(他の米内地区は第6部の米内班となり後の第16分団となる)
●5月6日 第3部、第1回規律訓練において金馬簾を受ける。
●9月26日 陸軍特別大演習(同年10月)が盛岡で開催される記念事業として、公園下に盛岡消防組本部を建設、落成式が行われる。
●10月26日 各部、陸軍特別大演習において金馬簾を受ける。
●12月7日 現小頭・旧小頭以上によって、盛岡消防組奉公会(現消友会)が組織される。会長・藤澤藤次郎、ほか23人。
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1931(昭和6) |
●5月6日 北海道東北6県消防大会が盛岡市で開かれる。
●中野村少年消防隊が設立される。
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1932(昭和7) |
●5月13日 岩手県消防殉職者慰霊碑を建立する。
●9月2日 第3部、盛岡地方裁判所火災の消防活動により金馬簾を受ける。
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1933(昭和8) |
●6月14日 各部、三田銃砲店火災の消防活動により金馬簾を受ける。
・3月3日 三陸大津波。
・12月1日 岩手公園に電気非常サイレンが設置される。
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1934(昭和9) |
●3月28日 盛岡消防組、消防現場功績顕著なため、内務大臣官邸に於いて(財)日本消防協会会長から表彰旗を授与される。
●4月 簗川村森林消防組が設立される。
●11日23日 盛岡上水道通水式が行われ、市内に消火栓450基が設置される。
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1935(昭和10) | ●1月24日 館向火災において初の消火栓消火が行われる。 |
1936(昭和11) | ●この年より毎年1月6日に出初式が行われ、昭和20年までつづく。 |
1937(昭和12) | ●11月20日 岩手病院火災における盛岡消防組各部の抜群の功労に対し警察部長より金馬簾が授与される。 |
1939(昭和14) |
●警防団例が発令され、「消防組」は4月1日より「警防団」へ改組。水害・火災防止に加えて「防空」が任務となる。盛岡消防組は次のように改組された。
第1部(仙北町)→盛岡市警防団第1分団
第8部(鉈屋町)→盛岡市警防団第2分団
第2部(馬町)→盛岡市警防団第3分団
第3部(八幡町)→盛岡市警防団第4分団
第4部(紺屋町)→盛岡市警防団第5分団
第6部(油町)→盛岡市警防団第6分団
第5部(本町)→盛岡市警防団第7分団
第7部(長町)→盛岡市警防団第8分団
(第9部は廃止)
第10部(新田町)→盛岡市警防団第9分団
第11分団(関口)→盛岡市警防団第10分団
・大日本警防協会が発足する。
・岩手県警防議会が発足する。
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1940(昭和15) | ●1月1日 厨川村の残りが盛岡市に編入されたことにより、同村警防団が4月23日付にて盛岡市警防団第11分団となった。 |
1941(昭和16) |
●4月10日 盛岡市警防団第12・13・14分団が設置される。本宮村・中野村・浅岸村が盛岡市に編入されたことにより、各村の警防団がそれぞれ盛岡市警防団第12・13・14分団となった。
●火災件数2の全国最少記録を立てる。
●(戦時下の消防組織)「婦人消防隊」「国防婦人会」「隣組防火群」などが組織された。
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1943(昭和18) |
●4月1日より河南、河北の各1カ分団ずつが夜警警備を行う。(第1分団より第10分団での交替制)
・5月1日 中津川上の橋・下の橋擬宝珠が戦需品として取り外される。
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1945(昭和20) |
・4月7日 久慈、大火により955戸を焼失する。
・8月4日 中津川上の橋の擬宝珠が国指定重要美術品に指定される。
・9月16日 アメリカ軍が盛岡に駐留する。
●10月 米軍の進駐により特別常備消防隊が設置され、盛岡市警防団から派遣される。特別常備消防隊は市内3カ所に配備される。(現在の岩手大学工学部、国立病院及び岩手教育会館前岩手公園内(旧団本部跡地))
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1946(昭和21) | ●第3部、3台目の消防ポンプ自動車を購入する。 |
1947(昭和22) |
・3月 青森県高舘に米軍が移動したことに伴い、特別常備消防隊が廃止される。
●消防団令が公布される。<警防団の解消と市町村消防団の誕生><市長が消防本部と消防団を統括><消防本部の下に消防署>などを骨子とする。
●4月30日 盛岡市消防団が次の14分団体制でスタートする。
旧盛岡市警防団第1分団(仙北町)→盛岡市消防団第1分団
旧盛岡市警防団第2分団(鉈屋町)→盛岡市消防団第2分団
旧盛岡市警防団第3分団(馬町)→盛岡市消防団第3分団
旧盛岡市警防団第4分団(八幡町)→盛岡市消防団第4分団
旧盛岡市警防団第5分団(紺屋町)→盛岡市消防団第5分団
旧盛岡市警防団第6分団(油町)→盛岡市消防団第6分団
旧盛岡市警防団第7分団(本町)→盛岡市消防団第7分団
旧盛岡市警防団第8分団(長町)→盛岡市消防団第8分団
旧盛岡市警防団第9分団(新田町)→盛岡市消防団第9分団
旧盛岡市警防団第10分団(関口)→盛岡市消防団第10分団
旧盛岡市警防団第11分団(三ツ家)→盛岡市消防団第11分団
旧盛岡市警防団第12分団(本宮)→盛岡市消防団第12分団
旧盛岡市警防団第13分団(中野)→盛岡市消防団第13分団
旧盛岡市警防団第14分団(浅岸)→盛岡市消防団第14分団
●7月5日 簗川村消防団が発足する。
●8月5日 盛岡市消防団に第15分団が設置される。第11分団の分家(厨川)が独立したものである。
●8月5日 盛岡市消防団に第16分団が設置される。(旧盛岡市消防団第6分団下米内班)
・日本消防協会が発足する。
・岩手県消防義会が発足する。
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1948(昭和23) |
●消防組織法・消防法の施行
●消防組織法の施行に関する政令
●新消防団令(前の消防団令廃止)――消防団の警察からの分離を明確化し、純然たる自治体(市町村)消防がスタートする。
●消防組織法一部改正(新消防団令廃止)――消防団に関する基本規定を組織消防組織に一本化する。
●10月10日 盛岡市消防団発足
●10月13日 盛岡市消防本部設置条令(15日施行)
消防本部 盛岡市内丸64-2 市庁舎内
消防署 盛岡市紺屋町29 第5分団併設
●10月21日 盛岡市消防団設置条令
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1949(昭和24) |
●7月8日盛岡市消防団設置条令が一部改正される。定数本部10人、16カ分団716人。消防車13台となる。
第1分団―仙北町 第2分団―鉈屋町 第3分団―馬町
第4分団―八幡町 第5分団―紺屋町 第6分団―油町
第7分団―内丸 第8分団―長町 第9分団―新田町
第10分団―関口 第11分団―三ツ家 第12分団―本宮
第13分団―中野 第14分団―浅岸 第15分団―厨川
第16分団―上米内
●盛岡市消防署で消防車2台を購入する。
●9月21日 盛岡市消防団会議室貸付規定
・2月20日 能代大火で焼失2238戸、死者3人を数える。
・12月26日 栃木県今市地震で死者8人を数える。火災はなし。
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1950(昭和25) |
●6月4日 消防団内規として、団員45歳、幹部50歳、分団長55歳、団付部長・副団長60歳を定年とする。
●消防団寄附行為統制要綱
・2月9日 毎年3月7日を「消防記念日」と定める。
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1951(昭和26) |
●1月4日 毎年1月6日を消防出初式と定める。
●1月 盛岡市消防署に水槽付消防ポンプ自動車第1号が配備される。
●盛岡市消防団第17分団が設置される。青山地区(下厨川)の新興により新設された。
●3月30日 盛岡市消防団設置条令が一部改正され、定員団本部13人、17カ分団716人となる。
・5月13日 雫石町で大火となる。126戸焼失。
・岩手県消防協会が発足する。
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1952(昭和27) |
●5月5日 盛岡市消防演習が行われる。以後毎年5月5日を演習の日と定める。
●8月5日 消防本部・盛岡市消防署の新庁舎が県庁前に完成する。
●賜松園前に40立方水槽をつくる。
・1月6日 黒沢尻消防組出初式が行われる。
・5月9日 第1回全国消防大会が開催される。
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1953(昭和28) | ●第4部(八幡町)の後援会が発足する。 |
1955(昭和30) |
●戦後初めて予定された盛岡市消防団出初式は大雪のため中止となる。
●盛岡市消防団第18・19・20分団が設置される。簗川村(2月1日)・太田村(4月1日)・雫石村繋地区(10月1日)が盛岡市に編入され各地区の消防団がそれぞれ盛岡市消防団第18分団(簗川)、第19分団(太田)、第20分団(繋)となった。第19分団は5部制で、昭和50年に3部制となる。
・1月11日 毎年1月26日を「文化財防火デー」と定める。
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1956(昭和31) |
●8月1日 盛岡市消防署青山分遣所を消防ポンプ自動車、人員5人で開所する。
・3月20日 能代市大火により、1475戸が焼失する。
・8月18日 大館市大火により、1344戸が焼失する。
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1957(昭和32) |
●第4分団、4代目の消防ポンプ自動車(いすゞ)を購入する
●2月 盛岡市消防団、優良消防団として(財)日本消防協会より表彰旗を授与される。
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1958(昭和33) |
●3月1日 盛岡市消防署上田分遣所を水槽付消防ポンプ自動車、人員8人で開所する。
●8月 盛岡市街に火災報知機を設置する。(21基)
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1959(昭和34) |
●4月 岩手県消防学校が上田高松に開校する。
●盛岡市消防署に化学消防ポンプ自動車を配備する。
・国で消防大学校を設立する。
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1960(昭和35) | ・6月17日 9月1日を「防災の日」と定める。 |
1961(昭和36) | ・5月29日 三陸大火。我が国最大の山林大火となる。 |
1962(昭和37) |
●3月1日 盛岡市消防署に盛岡で第1号となる梯子月消防ポンプ自動車(24m級)を配備する。
●3月 瀬川正三郎消防団長、藍綬褒賞を授かり、全国16人の代表として天皇陛下よりお言葉をいただく。
●9月12日 第4分団(八幡町)、第10分団(関口)との交流始め会を行う。大正2年、第10分団が米内村消防団第1部として発足の際、第3部(八幡町)の腕用ポンプを譲りその指導に当たった縁による。
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1963(昭和38) |
●盛岡市の火災報知器が51基となる。
・盛岡市、町名を新町名とした。
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1964(昭和39) |
●5月5日 盛岡市消防署に盛岡第1号となる救急自動車を配備する。
・6月16日 新潟地震。昭和石油タンクが火災となる。死者26、負傷者122、全壊家屋1960、前章家屋290、半壊家屋6640を数える。消防庁ヘリが初出動する。
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1965(昭和40) |
●第1回消防ポンプ自動車操法及び小型消防動力ポンプ操法大会を青山小学校において開催する。
●この年、盛岡市消防署員54人となる。
●8月7日 第10分団(関口)、創立50年祭を行う。
●12月 盛岡市消防署に2代目の科学消防ポンプ自動車を配備する。
・5月 世界で最も充実した国の消防技術センターが完成する。
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1966(昭和41) | ・7月29日 盛岡水祭りが始まる。 |
1968(昭和43) |
●盛岡市消防署に盛岡第1号となる照明車を配備する。
●7月14日花巻市城南小学校で開催の第1ブロック消防ポンプ操法大会において盛岡市が初優勝。成績は200点満点の199点であった。
●11月26日 第4分団、「い組纏の謂れ」の解読を鈴木彦次郎先生にお願いする。
●12月1日 盛岡市消防署仙北分遣所を化学消防ポンプ自動車、人員9人で開所する
・10月15日 第1回全国消防操法大会が開かれる。
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1969(昭和44) |
●3月31日26年間におよんだ分団による河南
・河北地区の夜間警戒が解除される。
●4月1日 盛岡市消防署上田分遣所が現在地に移転し、いよいよ消防常備体制が整う。
●4月15日 第4分団、「い組の謂れ」の解読成り、その書を鈴木彦次郎先生よりいただく。
・市制施行80周年
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1970(昭和45) |
●4月1日盛岡消防署繋分遣所を水槽付消防ポンプ自動車、人員8人で開所する。
・10月10日 岩手国体開催される。
・12月7日 岩鷲山碑を掘り上げ修復する。
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1971(昭和46) |
●8月1日 盛岡市、雫石町、葛巻町、岩手町、西根町、滝沢村、松尾村、玉山村、紫波町、矢巾町、都南村、安代町を区域とする盛岡地区広域行政事務組合消防本部が発足する。
●12月25日 盛岡市城西地区及び太田地区の消防力強化のため、化学消防ポンプ自動車、人員9人をもって盛岡消防署城西出張所を開所する。
・7月30日、雫石上空で航空大事故が発生する。
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1972(昭和47) |
●3月 盛岡消防署都南分署庁舎が落成する。
●12月25日 盛岡市厨川地区の消防力強化のため、消防ポンプ自動車、人員9人をもって盛岡消防署厨川出張所を開所する。
●千日デパートで大火災が発生し、118人が死亡する。
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1973(昭和48) |
●3月 盛岡消防署に給水車(8000㍑)を配備する。
●10月 盛岡消防署都南分署に救急自動車を配備する。
・11月29日 熊本大洋デパート火災で103人が焼死する。
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1974(昭和49) |
●2月 盛岡消防署に救急自動車(盛岡日産モーター寄贈)を配備する。
●3月 盛岡消防署に広報車(盛岡地区危険物安全協会寄贈)を配備する。
●9月 盛岡八幡宮祭典「い組」山車に江戸消防記念会の「い組」組頭同小頭、「は組」組頭が参加する。
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1975(昭和50) |
●2月 盛岡消防署に梯子付消防ポンプ自動車(32m級)を配備する。
●4月5日 盛岡消防本部・盛岡消防署の新庁舎が現在地に完成移転する。
●6月 盛岡消防署繋出張所庁舎が落成する。
●10月 盛岡消防署に救急自動車(岩手県共済農業協同組合連合会寄贈)を配備する。
●12月 盛岡市消防団員家族慰安会を開く。
●12月 盛岡消防署青山出張所に給水車(8000㍑)を配備する。
●全国消防団より腕用ポンプが姿を消す。小型は975台、消防ポンプ三輪自動車は14台だけとなった。
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1976(昭和51) |
●5月 盛岡消防署に救急自動車(住友生命寄贈)を配備する。
●11月 盛岡市松園地区の消防力強化のため、水槽付消防ポンプ自動車、人員10人をもって盛岡消防署松園出張所を開所する。
●11月 盛岡市太田地区の消防力強化のため、水槽付消防ポンプ自動車、機関常備員2人をもって盛岡消防署城西出張所太田分駐所を開所する。
●12月 火災報知機を廃止する。
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1977(昭和52) |
●10月 盛岡消防署仙北出張所に水槽付消防ポンプ自動車(日本損害保険協会寄贈)を更新配備する。
●11月 消防本部消防課所属として高速救急隊を救急自動車(日本損害保険協会寄贈)、人員7人をもって都南分署に併設開所する。
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1979(昭和54) |
●3月 盛岡消防署に屈折梯子付消防ポンプ自動車(15m級)を配備する。
●6月 盛岡消防署に指揮車を配備する。
●9月 盛岡消防署仙北出張所に救急自動車(日本消防協会寄贈)を更新配備する。
●10月1日 盛岡市消防団中隊訓練のため1日消防学校に入校する。
●12月 盛岡消防署に消防ポンプ自動車を更新配備する。
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1980(昭和55) |
●1月 盛岡消防署城西出張所庁舎を新築移転する。これに伴い、高速救急隊を都南分署より移設する。
●5月5日 盛岡市消防団初の中隊訓練を実施する。
●5月 盛岡消防署に救急自動車(高七紙工寄贈)を更新配備する。
●8月23日 第14分団、小型消防ポンプの県大会で優勝する
・11月 天皇陛下、鈴木善幸総理大臣御臨席のもと、消防百年記念消防団全国大会が後楽園において挙行される。
●12月 盛岡消防署厨川出張所庁舎が落成する。
●12月 盛岡消防署上田出張所に水槽付消防ポンプ自動車を更新配備する。
●12月 消防本部に広報車(盛岡瓦斯寄贈)を配備する。
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1981(昭和56) | ●12月7日 第4分団に5台目の消防ポンプ自動車が配車される。 |
1982(昭和57) | ・2月8日 ホテルニュージャパン大火災が発生する。 |
1983(昭和58) |
●3月 盛岡消防署に指揮車を更新配備する。
●4月 盛岡市茶畑地区の消防力強化のため、盛岡消防署中野出張所を消防ポンプ自動車、人員10人をもって開所する。
●5月5日 砂子田消防庁長官が盛岡市消防演習に初臨席する。
●5月22日 盛岡市近郷の消防団で山林火災訓練を行う。
●6月 盛岡消防署に広報車を配備する。
●9月 盛岡消防署に救出救助用の資機材搬送車(日本消防協会寄贈)を配備する。
●12月 盛岡消防署青山出張所に水槽付消防ポンプ自動車を更新配備する。
・4月27日 久慈市で大火災が発生する。
・11月22日 日本武道館において自治体消防制度35周年記念式典が挙行される。
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1984(昭和59) |
●2月 盛岡消防署上田出張所に広報車(盛岡地区防火協力会及び盛岡地区危険物安全協会寄贈)を配備する。
●4月1日 コミュニティ防災センターが開所する。
●4月 盛岡消防署に救助体制強化のため特別救助隊を人員14人をもって新設する。
●4月27日 第4分団(八幡町)、纏の謂れに基づき、明治橋中央において第1分団(仙北町)と纏の一時の交換式を行う。
●10月18日 消防団本部、退職盛岡市消防団分団長以上全員を盛岡市消防団相談役とすることを決定し、公共幹部半纏を送る。
●10月21日 第14分団、全国消防ポンプ自動車操法大会で5位に入賞する。
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1985(昭和60) |
●2月 盛岡消防署都南分署及び松園出張所に救急自動車を更新配備する。
●8月 盛岡消防署青山出張所に救急自動車を更新配備する。
●12月 盛岡消防署仙北出張所、城西出張所および厨川出張所に広報車(盛岡瓦斯寄贈)を配備する。
・5月 住田町消防団に県下初の女性消防団員が誕生する。
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1986(昭和61) |
●3月 盛岡消防署厨川出張所に水槽付消防ポンプ自動車を更新配備する。
●11月 盛岡消防署に水槽付消防ポンプ自動車を更新配備する。
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1987(昭和62) |
●9月 盛岡消防署松園出張所に広報車を配備する。
●10月 盛岡消防署に救助工作車を配備する。
・9月16日 毎年11月9日を「119番の日」と制定する。
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1988(昭和63) |
●7月 盛岡消防署繋出張所に広報車を配備する。
●10月 盛岡消防署繋出張所に水槽付消防ポンプ自動車(日本損害保険協会)を更新配備する。
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1989(平成1) |
●3月 盛岡消防署に化学消防ポンプ自動車を更新配備する。
●5月7日 盛岡市消防団第1分団(仙北町)200年祭りが行われる。(天明8年創設)
●10月 盛岡消防署青山出張所に広報車を配備する。
・7月7日 中国との公式訪問
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1990(平成2) |
●1月 盛岡消防署城西出張所高速救急隊の救急自動車を更新配備する。
●2月 盛岡消防署仙北出張所に救急自動車を更新配備する。
●2月 盛岡消防署青山出張所に給水車を更新配備する。
●5月 消防本部に指揮車を更新配備する。
●6月 盛岡消防署中野出張所に広報車(盛岡ガス寄贈)を配備する。
●8月 消防本部に救急自動車(日本消防協会寄贈)を配備する。
●11月 盛岡消防署に救急自動車を更新配備する。
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1991(平成3) |
●3月 盛岡消防署に消防緊急情報システムを導入する。
●8月 消防本部発足20周年記念事業(消防本部旗作製、シンボルマーク制定、記念誌発行、記念式典挙行、特別点検実施)が挙行される。
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1992(平成4) |
●3月 盛岡消防署仙北出張所庁舎を新築移転する。
●4月 盛岡消防署を盛岡中央消防署に改称し、盛岡市の大半と、葛巻町、岩手町、西根町、松尾村、玉山村及び安代町を管轄区域とした。
●4月 盛岡消防署青山出張所を盛岡西消防署に昇格させ、盛岡市の西地区及び雫石町および滝沢村を管轄区域とした。
●4月 盛岡消防署都南分署を盛岡南消防署に昇格させ、盛岡市の南地区及び矢巾町を管轄区域とした。
●盛岡消防署通信係を盛岡通信指令室に改組した。
●盛岡市消防団に第21・22・23分団が設置される。都南村が盛岡市に編入されたことにより、同村の消防団が盛岡市消防団第21・22・23分団となった。
●10月 盛岡中央消防署に梯子付消防自動車(35m級)を更新配備する。
●11月 盛岡中央消防署中野出張所に水槽付消防ポンプ自動車を更新配備する。
●11月 盛岡中央消防署に救急自動車を更新配備する。
●10月14日 種市町消防団、横浜の日本消防協会訓練所で開催された全国消防ポンプ操法競技大会で初優勝する。 |
1993(平成5) |
●3月 消防本部・盛岡中央消防署の救急自動車に救急高度化資器材を整備する。
●11月 盛岡中央消防署松園出張所に水槽付消防ポンプ自動車を更新配備する。
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1994(平成6) |
●2月 盛岡中央消防署に高規格救急自動車を配備する。
●3月 盛岡西消防署庁舎が落成する。
●4月 盛岡中央消防署に高度救急隊を発隊する。
●12月 盛岡西消防署城西出張所太田分駐所に水槽付消防ポンプ自動車を更新配備する。
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1995(平成7) |
●2月 盛岡中央消防署に指揮車(盛岡ガス寄贈)を更新配備する。
●3月 盛岡南消防著庁舎が落成する。
●11月 盛岡南消防署に作業者(三?公楽寄贈)を配備する。
・1月 阪神淡路大震災
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1996(平成8) |
●1月 盛岡南消防署仙北出張所に水槽付消防ポンプ自動車を更新配備する。
●3月 盛岡西消防署に高規格救急自動車を配備する。
●4月 盛岡西消防署に高度救急隊を発隊する。
・8月1日 岩手県防災航空発隊が発隊し、ヘリコプター「ひめかみ」が就航する。
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1997(平成9) |
●1月 盛岡中央消防署松園出張所庁舎が落成する。
●3月 盛岡中央消防署松園出張所庁舎が落城する。
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1998(平成10) |
●2月 盛岡西消防署に救助工作車を配備する。
●2月 盛岡南消防署に高規格救急自動車を配備する。
●3月7日 日本武道館において自治体消防制度50周年記念式典が挙行される。
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1999(平成11) | ● |
2000(平成12) |
●
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2001(平成13) |
●
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2002(平成14) |
●
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2003(平成15) |
●
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2004(平成16) |
● |
2005(平成17) | ● |
2006(平成18) | ●消防庁長官表彰「地域活動表彰」受賞 |
2007(平成19) |
●
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2008(平成20) |
●
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2009(平成21) |
●盛岡山車300年・盛岡市制120周年を記念し山車を運行
●盛岡ブランド表彰「もりおか暮らし物語賞」受賞
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2010(平成22) |
●11月3日 南部火消伝統保存会が平成22年度盛岡市市勢振興功労者表彰を受賞
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2011(平成23) |
●3月11日 東日本大震災発生
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2012(平成24) | |
2013(平成25) | |
2014(平成26) |